2017年5月11日木曜日

米国フィラデルフィア製油所のタンク火災で消防士8名死亡(1975年)

 今回は、1975年8月17日、ペンシルバニア州フィラデルフィアにあるガルフ・オイル社の製油所で起った原油貯蔵タンクの火災事故から消防活動中に消防士8名が死亡するという事例を紹介します。
< 発災施設の概要 >
■ 事故があったのは、ペンシルバニア州フィラデルフィアにあるガルフ・オイル社(Gulf Oil Co.)の製油所である。製油所の当時の精製能力は180,000バレル/日だった。

■ 発災があったのは、フィラデルフィア製油所の貯蔵タンク地区にある石油貯蔵タンクである。貯蔵タンク地区に設置されていたタンクは約600基だった。発災のきっかけになったのは、容量75,000バレル(12,000KL) で内部浮き屋根式の原油用貯蔵タンクである。
                           現在のフィラデルフィア製油所付近   (写真はGoogleMapから引用)
< 事故の状況および影響 >
事故の発生
■  1975年8月17日(日)午前6時頃、容量12,000KLの原油貯蔵タンクが、スクールキル川の桟橋に着桟していたオイルタンカーからの荷揚げを終えた直後、引火して火災となった。発災から2・3時間後には、制圧下にあると思われた火災が息を吹き返したように勢いを増した。現場では、多くの消防士が決死の活動を行なっていたが、その後、火災は拡大して大災害となった。

■  8月17日(日)真夜中の午前12時45分頃、フィラデルフィア製油所の桟橋に停泊していたオイルタンカー“アフラン・ネプチューン” は製油所への原油の荷揚げを始めた。原油はナフサを5%加えられたベネズエラ原油で、貯蔵タンクNo.231に移送された。

■ このタンクは1929年に建設されたリベット接続式で、第4ボイラーの近くに設置されていた。ボイラーには、レンガ造りの高い煙突があった。タンクと煙突はペンローズ・アベニュー橋に近かった。煙突には、白色で「GULF」と大きな文字が書かれており、フィラデルフィアのひとつのランドマークになっていた。

■ 8月17日(日)夜明け前に、貯蔵タンクNo.231はオイルタンカーからの荷揚げで一杯になった。さらに原油が入り続け、タンクのベントから炭化水素のベーパーが放出され、タンク外の空気中を漂い、ボイラー室の近くに溜まっていった。明け方近く、炭化水素のベーパーに引火し、フラッシュファイヤーが起った。炎はベーパーの跡をたどってタンクNo.231の方へ向かった。そして、タンク上部で大爆発が起った。時間は太陽が出始めた午前6時頃だった。

■ それから、火のついた油がタンクまわりの防油堤エリア内に流出したので、タンクNo.231で2回目の爆発が起った。さらに、タンクNo.231の防油堤内には別な貯蔵タンクNo.114があり、このタンク系統に延焼した。最初の爆発によってタンクに付帯する配管マニホールドが損傷を受けて、油が噴き出し、それに着火したものである。

■ 1回目のタンク爆発が起った直後に、フィラデルフィア消防署に最初の通報が寄せられた。ただちに消防隊が出動して現場に到着したときに眼にしたのは、火災になった2基のタンクから噴き上がる黒煙の巨大な雲だった。ボイラーに付帯する高さ150フィート(45m)のレンガ造りの煙突は基礎部から縦方向の割れがあり、火災になっているように見えた。
火災の状況
ペンローズ・アベニュー橋付近(左写真)、ボイラー煙突付近(右写真
(写真はPophistorydig.com から引用)
■ 消防隊は泡消火剤と消火用水を使用して火炎と戦った。午前9時頃には、なおも燃え続けていたが、消防隊は火災を制圧できると思っていた。しかし、現場ではいろいろな問題が生じ、破滅的な状況を迎えることになる。

■ 製油所の排水系統が適切に消火水と油の混合液を排出できなくなり、現場の地上に溜まり始めたのである。さらに、この地区の架空電線の危険性を懸念して、製油所にある何台かの排水ポンプが接続されている電源系統を遮断してしまった。写真を見て分かるように、現場は排水が溜まり続けた。
タンク火災に対応する消防隊員
(製油所排水系統が排水を吐け切らず、足元に溜まった消火用水)
(写真はPophistorydig.com から引用)
■ 消防士3名が、消防車No.133と資材のある場所から排水の溜まったところを渡っていた。そのとき、突然、閃光が発し、“水”が燃え上がった。このとき、フィラデルフィア消防長官とガルフ社の製油所長が近くの歩廊の上で消防活動を観察している最中で、この恐ろしい状況を目撃していた。3名の消防士は燃える水の中で窮地に陥っていた。消防長官はかろうじて最初の爆発時に脱出し、振り向くと、「炎が3人を巻き込んでしまっていた」と言い、「3人は泡の下に潜ろうとしたが、できなかった。3人は火に包まれていた」と語っている。

■ その日に出動した消防士のスクールフィールドさんは、その惨事の近くにいたひとりだった。彼も負傷してしまうことになるが、後年、当時の状況をつぎのように語っている。
 「地上はあらゆる方向に展張されていた消防ホースで一杯でした。私たちは暖かい油の中を歩いていました。私たちの足元より24インチ(60cm)ほどの深さだったと思います。しかし、みんなは火災を制圧するんだと言っていました。私も信じていました。事故が起きたのは、午後3時30分頃です。私は赤十字社の車で休憩していたら、“消防士に火がついた”と叫ぶのを聞きました。すぐにその方向へ駆け出しました。そのとき、私は炎に包まれた3人の消防士を見ました。火のついた3人は走り回っていました。彼らは油の中に突っ込んでいき、沈んでいきました。私はどうすることもできませんでした。そのとき、背後からそこから早く引き返せと叫んでいる声を聞きました。振り向いて走り出したとき、泡の覆いが壊れて、炎が立ち上がり、私は火に包まれました。このとき、シモンズさんという男性が私をつかんで走り、私たちは抜け出すことができました」
 スクールフィールドさんは大やけどを負って病院に搬送され、火傷治療センターで2か月間過ごすことになった。その後、スクールフィールドさんは消防士として職場復帰することはできなかった。

■ 一方、その頃、製油所の火災は大火に発達していた。午後5時頃、消防長官は、休憩のために一旦は署に返した消防士を呼び戻さざるを得なかった。

■ 火災は製油所の東の方向へ拡大していた。このため、消防車が2台が被災し、製油所の消火剤ポンプも使えなくなっていた。これ以前にも、フィラデルフィア消防署の消防車2台がフラッシュファイヤーで壊されていた。

■ 製油所では、部分的に電力の供給が停止し、電話も通じない状態だった。一方、火災は高さ125フィート(38m)のペンローズ・アベニュー橋に向かって広がっていき、4基の貯蔵タンクが危険な状況になった。午後5時30分頃には、製油所の管理棟が火災に巻き込まれた。この日、フィラデルフィアでは、製紙工場で別な火災が起こっており、消防署の対応能力を超えていた。

■ 午後6時、消防長官は消火活動に関する指示を出すとともに、その日の日勤の消防士に居残るように指示した。橋の近くにあるボイラーの煙突には、火災時の爆発による大きな割れができていた。煙突が橋に倒れかかる恐れがあり、拡大する火災によって橋が壊れたり、強度の低下が懸念されたため、当局は橋を閉鎖した。

■ 午後7時、火災となったタンクと配管からは炎が噴出し続け、製油所内の道路でも油が流れながら燃えていた。この時点では、火災を止めることができないように思えた。実際、多くの道路ごとに緊急事態対応がとられ、火災となったタンクごとに緊急事態対応がとられていた。

■ 一晩を過ぎ、フィラデルフィア消防署は主要な戦いに打ち勝つ目処が立ったとし、8月18日(月)午前5時38分、火災を制圧下に入れたと報告した。最初に火の出たタンクNo.231の火災は燃え尽きさせる方法をとる判断がされた。現場では、その週も、ぽっと燃え出すような状況が続いた。フィラデルフィア消防署は、消火後の再燃に対応する製油所の自衛消防隊を支援するために少なくとも4回出動した。

■ 最終的に、火災は一週間後の8月26日(火)に鎮火宣言が発表された。
 一方、当該事故がガルフ・オイル社フィラデルフィア製油所における最初の火災ではない。1960年以降、フィラデルフィア製油所では10回の火災が起きている。1975年5月16日に火災事故が起こっており、1975年8月の大火災の後、1975年10月20日にも火災が起こっている。
(写真はPilly.comから引用)
被 害
■ 事故によって22名の死傷者が出た。
 発災のあった日に6名の消防士が命を失った。さらに、その後、重度の火傷を負った2名の消防士が亡くなった。このほか、少なくとも14名が負傷して病院で治療を受けた。

■ 複数の貯蔵タンクが焼損した。少なくとも6基のタンクが被災している。このほか、タンクまわりの配管や製油所の管理棟が被災している。また、消防車にも4台以上の損害が出ている。
 
< 事故の原因 >
■ 火災発生の最初の要因は原油用の貯蔵タンクNo.231の過充填だった。タンク過充填の原因は、タンカー乗員がタンク内へ移送する原油の量をきちんと監視していなかったためである。
 
■ 原油が荷揚げされた大型貯蔵タンク内の上部には、大量の炭化水素ベーパーが溜まっていた。タンク内に入る原油の量が増え、タンクから油が流出することはなかったが、タンク内に溜まった炭化水素ベーパーがタンクベントから押し出され、ボイラー室のエリアに流れていった。この後、引火して最初の爆発と火災が起った。引火源は特定できなかった。
 なお、供給していたタンカーは移送を終了して、スクールキル川の桟橋を離れ、ホグ島の埠頭に移動している。

< 対 応 >
■ 火災の対応のため出動し、消火活動に携わった消防士は約600名だった。

■ 1975年のガルフ・オイル製油所火災事故は、フィラデルフィア市にとって記憶にとどめる日となっている。特に、フィラデルフィア消防関係者で火災によって亡くなった人の家族や友人にとって忘れられない日である。2007年8月、フィラデルフィアのファイアマン・ホール・ミュージアムに約200人が集まり、事故で命を失った消防隊員に敬意を表する追悼碑の除幕式が行われた。 
ペンローズ・アベニュー橋から見たタンク火災
(写真はPophistorydig.com から引用)
タンク火災の消火のために配備された消防車と消防隊員
(写真はPophistorydig.com から引用)
タンク火災の消火活動に従事する人たち
(写真はPophistorydig.com から引用)
(写真はHiddencity.orgから引用)
補 足
■ 「ペンシルバニア州」(Pennsylvania)は、米国北東部に位置し、人口約1,280万人の州である。
 「フィラデルフィア」(Philadelphia)はペンシルバニア州南東部のフィラデルフィア郡にあり、人口約156万人の州都である。
    ペンシルバニア州の位置   (図はNizm.co.jpから引用)
■ 「ガルフ・オイル社」(Gulf Oil Co.)は、1901年に設立された石油会社を発祥とし、セブン・シスターズのひとつとして発展した。1970年頃の全盛時期を経て、1984年にスタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(SOCAL)と合併し、シェブロンと改名した。
 フィラデルフィア製油所は1904年に創業され、1975年当時は米国で最大の製油所にひとつとして操業されていた。現在は、335,000バレル/日の精製能力でカーライル・グループのフィラデルフィア・エナージー・ソリューションズ社によって経営されている。グーグルマップで見ると、火災事故のあったエリア付近のタンクは多くが撤去されている。しかし、橋の近くに使われていない煙突が今もみられる。
現在のフィラデルフィア製油所における1975年火災事故のあったエリア付近
(写真はGoogleMapから引用)
現在のフィラデルフィア製油所と残されている煙突
(写真はGoogleMapから引用)
所 感
■ 事故の原因はタンクの過充填であるという。事故の経緯や要因は異なるが、タンクの過充填を引き金に大災害となった事例としては、2005年12月の「英国バンスフィールド油槽所タンク火災」や2009年10月の「カリビアン石油タンクターミナルの爆発・火災」と同じである。まさに、事故は繰り返えされると感じる。


■ 消火活動中の消防士8名が亡くなるという極めて稀な事例である。製油所の排水系統が排水を吐け切らず、流出していた油と消火排水が現場から抜けずに溜まり、軽い油が水の上に浮き、消火泡が途切れた部分で火が付いたとみられる。石油産業の最先端を走っている米国では、事故の分野でも思ってもみなかったような経験をしていると感じる事例である。  

備 考
本情報はつぎのインターネット情報に基づいてまとめたものである。
    ・Pophistorydig.com, “Burning Philadelphia”,  Refinery Inferno: 1975,  February  15,  2015
    ・Gendisasters.com,  Philadelphia, PA Refinery Fire, Aug 1975,  August  18,  1975
    ・Firehouse.com,  Remembering the Gulf Oil Refinery Fire,  December  03,  2015
    ・Philly.com ,  Ceremony    marks 1975 Gulf Oil Refinery blaze that  killed Eight Firefighters,  August  17,  2015
    ・En.wikipedia.org, 1975 Philadelphia Gulf Refinery Fire,  March 27,  2017


後 記: 最近、貯蔵タンクの事故情報を聞きません。実際に事故が起こっていなければよいのですが、そうなのかどうかははっきりしません。これまで産業事故の情報を伝えていたインターネット情報源のひとつが無くなり、アンテナが狭くなっています。この種の情報をキャッチしずらくなっています。
 さらに、公的な機関では、このブログでも多くの事例を紹介したフランス環境省のARIA(事故の分析・研究・情報)がすでに活動を停止していますし、最近では、米国の軍事予算増大のあおりでCSB(米国化学物質安全性委員会)が閉鎖されようとしています。事例情報の分析や公表を行わない世の中になっていくことを懸念しています。


2017年4月24日月曜日

米国ホワイティング製油所の装置爆発で貯蔵タンク70基に延焼(1955年)

 今回は、1955年8月27日、米国インディアナ州ホワイティングにあるスタンダード・オイル社の製油所で流動床式のハイドロフォーマー(接触改質装置)が爆発し、飛び火して70基の貯蔵タンクに延焼した歴史的な災害事例を紹介します。
(写真はPophistorydig.comから引用)
< 発災施設の概要 >
■ 事故があったのは、米国インディアナ州(Indiana)のホワイティング(Whiting)にあるスタンダード・オイル社(Standard Oil)の製油所である。製油所の敷地面積は1,660エーカー(670万㎡)だった。

■ 発災の発端は、製油所の流動床式のハイドロフォーマー(接触改質装置)である。ハイドロフォーマーは、触媒による接触分解プロセスとして知られ、高温・高圧下でナフサと水素を使用して高オクタン燃料を製造する装置である。ハイドロフォーマーは高さ260フィート(79m)で、25階のビルより高い。当該装置の生産能力は30,000ガロン/日(1,100KL/日)で、ホワイティング製油所の新しい装置として稼働し始めたばかりだった。ハイドロフォーマーの設備は、当時、石油精製装置の中で最大の塔槽を有し、最高水準の技術が結集されたものと信じられていた。
発災前のスタンダード・オイルのホワイティング製油所
(写真はPophistorydig.comから引用)
< 事故の状況および影響 >
事故の発生
■ 1955年8月27日(土)午前6時15分頃、予兆もなく、流動床式のハイドロフォーマーで爆発が数回起った。これが“地獄の始まり”だった。最初の爆発でプロセス装置はバラバラになり、2インチ(5cm)厚で30フィート(9m)長の鋼材が吹き飛び、無数の小破片が四方へ乱れ飛んだ。近くに住んでいた女性は、「太陽が爆発し、世界の終わりが来たと思いました。恐ろしいような音が聞こえ、大きな赤い閃光が走りました」と語っている。最初に起った爆発力によって3マイル(4.8km)以内のほとんどの窓が割れた。キノコ雲が8,000フィート(2,400m)の高さにまで上がり、30マイル(48km)離れたシカゴでも見えた。

■ 爆発したハイドロフォーマーから熱い破片が製油所内と隣接する住宅地に雨のように降り注いだ。製油所構内では、噴き飛んだ金属片やコンクリート片の一部が石油貯蔵タンク群へ落下し、穴をあけた。このため、タンクに火がつき、中には爆発を誘発した。 “燃えている油による洪水”が製油所内の地上や構外のホワイティング通りと排水溝を流れているようだったと当時の新聞は報じている。排水溝から逆流するガスにタバコや家庭調理器の火で着火する危険性があると、あとから住民に警告がまわった。実際、この地区にある何本かの電柱が燃えた。

■ 製油所に隣接する住宅地では、飛んでいった物体が多くの家屋に損害を加え、住民に恐怖を与えた。実際、10フィート(3m)の鋼管が1軒の家の屋根を突き破り、部屋で寝ていた3歳の男の子に当たって男の子は死亡した。大きなものでは180トンの鉄の塊が飛んでいた。製油所から半径3マイル(4.8km)以内の会社事務所、住宅、ガレージ、自動車などに多大な被害が出た。
 
■ かろうじて家から逃げて避難所のホワイティング・コミュニティ・センターにたどり着いた二人の子どもを連れた夫婦は、その時の恐怖をつぎのように語っている。
 「爆発でベッドから放り出されました。鉄のパイプが建物を突き破っていました。窓は部屋の内側に吹き飛び、天井のしっくいが剥がれ落ちていました。私たちは床を這い出し、子どもたちを探しました。子供のベッドはひっくり返っており、子どもはその下にいました。まわりは割れたガラスとしっくいで覆われていました。私たち四人はそこから急いで出て、車に乗り込みました。路地に沿って抜けようとしたところ、100トンはあろうと思われる金属の塊に行く手を阻まれました。塊は製油所から飛んできたものでした。私たちは引っ返して路地の反対側を進み、やっと避難所に着くことができました」

■ この爆発事故によって、スタンダード・オイル社の従業員1名が死亡し、40名以上が負傷して病院に搬送された。

■ 近隣地区では、600世帯約1,500人が避難した。治安維持のため、地元警察のほか武装した州兵が出動した。

■ 最初の爆発に続き、製油所の別なところから火災が起った。つぎの2日間、火災は広がり続けた。貯蔵タンク地区を行進するように爆発が起こり、油が流出し、火災が起った。火炎は、ときには、300~400フィート(90~120m)の高さにまで上がった。

■ 製油所構内にある貨物用鉄道は高温に曝されて、線路が歪んでしまった。貨物車の中には、熱によって溶けかかったものもあった。

■ 発災から二日目の時点では、火災は制圧下に入っていたと言われていた。しかし、この段階では、火炎が近くのシンクレア・オイル製油所に延焼してさらに被害の広がる恐れがあった。発災から時間が経過し、消防隊は火災を消すよりも封じ込める方が現実的だと感じていた。このため、製油所以外のところに火災が広がることがないよう、消防隊は火災場所の周辺に大きな土盛り堤を構築し始めた。

■ 結局、45エーカー(182,000㎡)の貯蔵タンク地区にあったタンクのうち70基が火災となった。損壊したタンクからは油が流出し、インディアナ港の運河に流れ込んだ。

■ 製油所は燃え続け、最後の火災が消えたのは9月4日(日)である。火災は8日間と5時間燃え続け、3つのプロセス装置が損壊し、貯蔵タンク70基が焼失した。火災跡には、曲がりくねった真っ黒な鋼材が横たわっていた。
(写真はPophistorydig.comから引用)
(写真はChicagotribune.comから引用)
(写真はChicagotribune.comから引用)
被 害
■ 事故による死者は2名(従業員1名、市民1名)、負傷者は40名以上である。
 なお、近隣地区の600世帯約1,500人が避難した。

■ 焼失面積は45エーカー(182,000㎡)で、3つのプロセス装置と70基の貯蔵タンクが損壊した。石油貯蔵タンク内の6,000万バレル(950万KL)の油が焼失したといわれている。

■ 爆発によって損壊した家屋は180棟にのぼった。このうち、140棟はスタンダード・オイル社が買い上げた。

■ 損害額は、当初、1,000万ドルと見積もられた。このうち、100万ドルが損害保険で支払われた。その後の損害に関する見積もりでは、3倍の3,000万ドル(2015年換算で8,700万~2億7,300万ドルの間)という額になった。
 
< 事故の原因 >
■ 貯蔵タンクが火災となったのは、ハイドロフォーマー(接触改質装置) の爆発によって飛び火して延焼したものである。

< 対 応 >
■ 大火災と戦うため、スタンダード・オイル社から多くの従業員が動員されるとともに、ハモンド、東シカゴ、ゲイリー、カルメット・シティ、ダルトン、シカゴの各消防署の消防隊が出動し、合計で6,000人以上が参加した。

■ 消防隊は火災を消すよりも封じ込める方が現実的だと判断し、施設から流れ出て燃えている油を封じ込めるため、 3,000人で貯蔵タンク周辺に土盛り堤を構築した。

■ 一方、爆発を伴う恐れのある石油貯蔵タンクは、州兵によって40ミリ機関銃が打ち込まれ、タンクが爆発する前に内部の油が銃弾の穴から流れ出るようにした。

■ 1年後、スタンダード・オイル社は操業を再開し、被災した設備を作り直して再び100%の能力で運転を行っている。

■ 一方、事故が製油所で働く作業員と地域の人たちに与えた恐怖と不安感は大きかった。住民のひとりは、のちに、「爆発事故を契機にホワイティングの人口は10,000人から5,000人に減りました」と語っている。実際、事故後、アモコ/スタンダード社は製油所に隣接する土地を買い取ることになり、火災によって損害を受けた多くの住居や事務所が再び戻ることはなかった。

■ 2015年8月、事故から60回目の記念日を迎えた。ホワイティング/ロバーツデイル歴史協会は新しいドキュメンタリー映画「夜明けから1分後」を発表した。 1時間半の映画は貴重な経験を残すために制作されたものである。
遠くから火災を見ていたとき、突然、 爆発が起きて車の方に逃げる住民
(写真はPophistorydig.comから引用)
爆発で飛んできた大きな金属片の横で燃え上がる大型タンク
(写真はPophistorydig.comから引用)
(写真はChicagotribune.comから引用)
燃える油の封じ込めのため、土盛り堤の構築作業
(写真はPophistorydig.comから引用)
まだくすぶりが続く中、損壊したタンクを調査する人
(写真はPophistorydig.comから引用)
補 足
■ 「インディアナ州(Indiana)は、米国中西部に位置し、五大湖地域にある人口約650万人の州である。
 「ホワイティング」(Whiting)はインディアナ州北西部に位置するレイク郡にあり、ミシガン湖に接する人口約5,000人の町である。
               インディアナ州の位置   (図はNizm.co.jpから引用)
■ 「スタンダード・オイル社」(Standard Oil)は、1870年にジョン・D・ロックフェラーによって設立された石油会社である。1878年には米国の石油精製能力の90%を保持するまでに至り、独占を制限する動きから会社を34に分割した。スタンダード・オイル社はその後エクソン・モービル、アモコ、シェブロンなどに引き継がれることになる。
 インディアナ州ホワイティングにあった製油所はスタンダード・オイル・オブ・インディアナとなり、その後アモコに改名された。ホワイティングの製油所は、現在、「ホワイティング製油所」(Whiting Refinery)と称し、42万バレル/日の精製能力でBPによって経営されている。
                現在のホワイティング製油所   (写真はGoogleMapから引用)
所 感
■ 最悪で大規模な石油施設の事故である。最近の大きな貯蔵タンク事例では、2005年の英国バンスフィールド事故の被災タンクが23基、2009年のプエルトリコ事故の被災タンクが21基、インドのジャイプール事故の被災タンクが11基である。これに比べ、タンク規模やタンク間距離などの違いがあるにしても、ホワイティング事故の被災タンクは70基(67基と報じられていることもある)であり、いかに大災害だったか分かる。

■ これだけの複数タンク火災が起これば、消火活動は困難である。消火戦略としては、消極的戦略として延焼防止の土盛り堤構築を行い、燃え尽きさせようというのは妥当な判断だっただろう。興味深いのは、機関銃でタンク側板に穴を開けて爆発する前に油を抜く判断を行ったことである。今から考えれば、かなり荒っぽい方法ではある。しかし、当時の発災現場は大混乱していたと思われるが、消火戦略上の「敵」を明確にして対応しようとしたことはうかがえる。

備 考
 本情報はつぎのインターネット情報に基づいてまとめたものである。
 ・Pophistorydig.com , “Inferno at Whiting” Standard Oil: 1955,  August  27,  2015 
 ・Chicagotribune.com ,  1955 Standard Oil refinery blast sounded like ‘end of the world‘ ,  August  27,  2015


後 記: さすがに記録好きの米国だと感じる資料です。しかし、日本にも、この事例に関する記述が残っていました。「渋沢社史データベース」の「日本石油㈱ 日本石油史:創立70周年記念」の中で、昭和30年(1955年)8月に「アメリカ、インディアナ・スタンダード石油ホワイティング製油所の流動式ハイドロフォーマー大爆発、損害1,000万ドル」と記載されています。このあたり、日本石油がスタンダード・オイル社系の会社だったことが分ります。日本石油はJXエネルギーとなり、さらに、この4月から東燃ゼネラルと合併し、JXTGエネルギーとなりました。日本石油は情報公開に積極的な会社で、昭和35年に「石油精製技術便覧」を編纂し、現在ではインターネットで内容を見ることができるようにしています。少し心配なのは、会社が寡占状況になると、情報公開に積極的でなくなります。今年の1月に起きた東燃ゼネラル和歌山工場の事故原因について報告書が公開されなくなるのではないかと懸念しています。老婆心であればよいのですがね。

2017年4月15日土曜日

ベルギーで硝酸タンクの漏洩によって全村避難

              硝酸漏洩によって流れる茶褐色のガス   (写真Firedirect.netから引用)
 今回は、2017年3月31日(金)、ベルギーの西フランダース州ゼーフェコーテ村にある肥料工場の硝酸タンクから漏洩事故があり、全村民が避難するという事例を紹介します。

< 発災施設の概要 >
■ 事故があったのは、ベルギーの西フランダース州(West-Flanders)のゼーフェコーテ村(Zevekote)にある肥料工場である。

■ 発災があったのは、肥料工場にある硝酸タンクである。タンク容量は26KLだった。
                   ベルギーのゼーフェコーテ村付近    (写真はGoogleMapから引用)
< 事故の状況および影響 >
事故の発生
■ 2017年3月31日(金)午後5時30分頃、肥料工場の硝酸タンクからの漏洩が始まった。発災時、硝酸は容量26KLタンクの60%まで入っていた。

■ 硝酸が漏洩したことを受けてゼーフェコーテ村に地方災害対応プランが発動された。地元の村長は予防措置として全村民の避難指示を出した。硝酸に触れるとやけど状の損傷を受けるし、硝酸から発するガスは軽度の呼吸困難を起こす要因となる。

■ ゼーフェコーテ村の住民約570人全員が避難した。住民は、突然、家から離れなければならなくなった。ある若い母親は、「すぐにうちを出るよう言われ、少しの猶予もありませんでした。とりあえず要りそうなものを車に運び、家を出ました。赤ん坊のためのボトルを用意するのと、おしめを少し持ってくることくらいしかできませんでした」と語った。

■ さらに、夕刻遅く風向きが変わったため、隣接するシント・ピーテルス・カペル村の住民約300人も避難することになった。

■ ひとりの警官が硝酸のガスを吸ったが、病院で検査を受けた後、帰宅した。

■ 当局は、一晩中、監視のための測定を行った。この結果によると、漏洩は制御下に入っていると判断された。

■ 4月1日(土)の朝の時点で、タンクは空になった。ただ、わずかにまだガスが放出しているという。

■ 技術的専門家が現場に派遣され、タンク漏洩の問題をどのように解決するか検討に入った。分析調査は食品安全機関と環境機関によって進められた。作物や植物への影響も調べられている。現時点では、この地域の動物や野菜を食べることは勧められないし、井戸水も警告の対象である。
(写真はGrenzecho.netから引用)
(写真はT-online.deから引用)
被 害
■ 事故に伴い、住民約870人が避難した。

■ 肥料工場の硝酸タンクに損傷があると見られているが、設備の被災状況は不詳である。硝酸の漏洩損失量は約15KL(タンク容量26KL×60%)である。

< 事故の原因 >
■ 漏洩の要因はタンクに亀裂が入ったためとみられる。事故の原因は調査中である。

< 対 応 >
■ 硝酸タンクは残留液を排出され、水で洗浄されたが、この作業には化学会社のBASFが支援した。

■ 避難指示が解除された後も、各家庭の住居の換気が行われて、安全が確認されてから住民の帰宅が行われた。最初に帰宅が許可されたのは、4月1日(土)の午後1時である。
(写真は、左:Ketnet.be.、右: M.hln.be. から引用)
      発災タンク(丸印)と漏洩処理状況   (写真はNieuwsblad.beから引用)
                    発災タンク    (写真はDeredactie.be から引用)
補 足
■ 「ベルギー」(Belgium)は、正式にはベルギー王国(Kingdom of Belgium)で、西ヨーロッパに位置する立憲連邦君主制国家で、人口約1,100万人である。首都はブリュッセルである。
 「フランダース州」(Flanders)はベルギーの北西部にあり、人口約115万人の州である。 「ゼーフェコーテ」(Zevekote)はフランダース州の北部にあり、人口約570人の村である。
                ベルギーの位置   (図はGoogleMap から引用)  
■ 「硝酸」(HNO)は、通常、無色~黄色の刺激臭のある強酸の液体で、発煙性が激しい。融点-41℃、沸点86℃で、普通に硝酸というときには、水溶液を指す。98%硝酸の比重は1.50以上、50%硝酸の比重は1.31以上である。肥料、硝酸エステル、ニトロ化合物の原料のほか、液体ロケット燃料の酸化剤として用いられる。
 濃硝酸からは常に硝酸のガスや微粒子あるいは窒素酸化物が発生しており、水や金属などの物質との反応で爆発的に発生する危険性物質である。漏洩時の事故処理に当たっては、保護衣と防毒マスクを着用する必要がある。多量に流出した場合、漏洩した液は土砂等で流れを止め、それに吸着させるか、または安全な場所に導いて、遠くから徐々に注水してある程度希釈した後、消石灰やソーダ灰などで中和して多量の水を用いて洗い流す。 (硝酸の危険性や漏洩時の対応は公益財団法人 日本中毒情報センターの「硝酸」を参照)
 2015年2月、スペインの化学プラントで硝酸による爆発が起き、有毒ガスが大量に大気へ放出されて多くの住民が屋内避難した事例がある。
                  スペインの硝酸爆発事故     (写真はCool3c.comから引用)
所 感
■ 硝酸タンクの事故を紹介するのは、初めてである。石油タンクの事故とは違った怖さがある。漏れた硝酸のガスがいかにも毒々しい茶褐色で一層不気味さを感じる。見方を変えれば、硝酸ガスの汚染エリアがよく分かるともいえる。

■ 発災タンクの仕様は容量(26KL)だけが発表されているが、材質などは不詳である。事故処理状況の写真を見ると、二重殻のような構造であるが、金属製と思われる。従って、ステンレス鋼ではないかとみられる。容量から推測すれば、高さ約4m×直径約2.8mクラスの竪型円筒タンクとみられる。タンクに亀裂があったと報じられており、亀裂の要因としては材質選定ミスまたは溶接不良などが考えられよう。

備 考
 本情報はつぎのインターネット情報に基づいてまとめたものである。
  ・News-h24.com,  Whole Village Evacuated as Nitric Acid Leaks Author: CDC,  April  01,  2017   
    ・Hotrecentnews.com,  Belgian Tank with Nitric not Empty,  April  01,  2017 
  ・Firedirect.net,  Belgium – Entire Villiage Evacuated Following Nitric Acid Tank Leak,  April  07,  2017  
    ・Standaard.be, Laatste inwoners Zevekote weer naar huis na lek salpeterzuu,  April  01,  2017
  ・Nieuwsblad.be, Salpeterzuur ontsnapt uit tankwagen, oorzaak lek nog niet bekend,  April  01,  2017


後 記: 石油系の貯蔵タンクの事故の紹介が多いが、今回、ケミカルである硝酸タンクの事故情報を取り上げたのは、「全村避難」という報道に関心を持ったためです。調べてみると、茶褐色の硝酸ガスが漂っている写真が報じられており、石油系タンクとは違ったリスクのあることが分かりました。最近、シリアで化学兵器(サリン)が使われたというニュースと重なるような事例になりました。化学兵器の殺傷力に比べれば、硝酸漏洩の人間への影響力は小さいとはいえ、今回の事故で800名を超す住民が避難することになりました。ケミカルの中には、危険性の高いものがあることを再認識しました。Haz-Mat(ハズマット)隊は必要ですね。